頑張って提言

那須に住む元広告クリエイターが世の中に対してホンネを語る

男女格差、解消のために。

日本の社会は、男優位の社会であることは歴然としている。80老人にとっても悲しいことだ。

自分自身、胸に手を当て、80年を振り返ってみても、居心地も良い、男社会に安穏として暮らしてきた。その男社会を形成したのは、家族を守るために腕力を必要とした、古代から築き上げられてきたもので、おいそれとは解消できないであろう。

その解消のために、まず必要なのは、「男」と「女」の意識の変革である。特に「女」の意識の、「日本の女性の意識」の中に強固な「男より女が劣る」があるように思われてならない。

 日本は民主国家である。法律は厳然と守られ、憲法は、男女平等を謳っている。ならば、男女格差をなくす、具体的な法律を制定したらよいではないか。公務員の男女比率を法で決める。私企業であっても、役職者の男女比率を法で決める。家事、育児を職業と評価することを法で決める。etc.このことによって、日本は男女格差解消に前進し始めるだろう。

 このような大胆な法律制定のためには、国及び地方自治の議院での立法がなされなければならず、そのためには、その法律に賛成する議員の過半数が必要である。当然女性議員は過半数に達している必要があるであろう。難しいことではない。日本の男女構成比は、拮抗している。

であるのに、日本での議員の男女構成比は、国連加盟国中103位だそうである。地方議員を見ても、女性の構成比は一割に満たない。なぜなのであろう。

女性の多くは、男女格差に、危機意識を持っていないのだろうか。私の知る限りの女性たちは、格差社会に、私同様、安穏と暮らしているように見える。

 と同時に、「男にはかなわない意識」がどこかにあり、「私なんかが、行政に関わる?」「私なんか社会で何か言う?」と言う無意識が働いているように見える。それでも頑張って、「とにかく、権利を行使する貴重な一票は、必ず女性に投票する」ことから始めたらどうだろう。次の参議院選挙で、ある女性候補者が、突然、100万票の得票を得たら、そこからでも、日本は、男女格差解消に向かい始める。

なでしこ達よ、セクハラ被害者が男性になるような(笑)近い未来のために、あなたの中の男女格差をなくし、政治に、社会に関わろう!

森友問題の終焉と民主主義の危機

 

佐川氏の国会喚問が終わり「森友問題」が終焉したかに思われる。

しかし、国民は、はっきりと見た。

国会答弁に立った安倍首相の表情は「森友学園問題について私には疚しいところがあります。」と語り、国の舵取りより、妻の舵取りに汲々としている姿をさらけ出た。

麻生財務大臣は、「俺、この問題に一切関わっていないのに、なんで国会で詰問にあわなければならないの?安倍さん、何とかしろよ!」と多くの視聴者に不快な思いをさせた表情で語った。

喚問のトップバッター、自民党の議員女子は安倍神輿のお先棒を担ぎ「よいしょ!よいしょ!安倍さんよいしょ!」と国民のひんしゅくを買うも得意げ。

野党の議員先生寄ってたかって佐川氏に殴り掛かるも、権幕だけはすごくとも、力不足で軽くいなされる。それもそのはず「安倍の首が取りたい」だけが先だって、公文書偽造の本質を見失っている。「公文書偽造」は民主主義の終焉にも繋がる前代未聞の事件であり、責任は明らかに現内閣にある。なぜ責任を追及しない!

佐川証人に至っては「お前らみたいに知性の低い奴らが、俺から何か言質が取れるとも思っているの」「政府の皆さん、俺裏切ったりしないから、よろしくね」と神聖な国会の場でうそぶいた。

 森友問題に拘わった、安倍首相をはじめ多くの方々は、ほっと一息。森友問題は終焉に向かったかとも思われる。しかし国民がTVを通して見たことは政府関係者の思惑通りではない。

 偽造文書が一年間もの間まかり通った国会は、その間民主主義が休止状態であったともいえる。その行為を行ったのが国の中枢を担っている、高級(?)官僚であり、内閣も容認していたとあっては、いまだに日本国は「民主主義低開発国」である。

 さらに、偽造の発端が、首相夫人の奇行とあっては、あきれてものも言えない。

 森友学園関連の幼稚園を訪れた首相夫人が、「教育勅語を暗唱する幼稚園児の様子に感涙にむせた」と報道された。

いうまでもなく、教育勅語は「帝政の教育指針」である。すでに民主国家日本では「法律」をもって葬り去ったその指針を、首相夫人が協賛するような態度は、「奇行」とでもしないと理解ができない。

森友問題がこのまま終焉するなら、この国の民主主義も終焉に向かうのだろう。

 

 

森友問題  阿部政権による民主主義への挑戦

当然のことながら、国会は国権の最高機関であり、国唯一の立法機関である。(日本国憲法第四十一条)また、六十二条では、衆参両議院に国権を用いて、国政に関する調査権をも認めている。であることから、安倍総理や、麻生財務大臣の国会での答弁「検察で捜査中であることから、その事柄についてお答えできません」や、財務局の「資料が全て検察の手元にあるので」などはナンセンスである。案の定、見かねた検察が「いつでも資料は戻しますよ」との事態になり、しぶしぶ財務省が国会に資料を提出した、と言うのが朝日新聞のスクープから始まった今回の「森友資料改ざん問題」の露見過程である。

検察より国会が権力を持っていることは、総理大臣様、財務大臣様、理財局長様などそうそうたる権力者がご存じないとは思われない。知っていながら民主国家日本の国会ででそのような言い逃れ答弁をすることは、国政の長たる人々の、国会を軽視している態度の表れである。

そのうえ、財務省は、日本国の国権の最高機関である国会へ、虚偽の資料を提出し、国会議員はその資料を基に討論を重ねた。すなわちその間国会が「意味をなさない」無の状態であったといえる。

国会を否定することは、民主主義を否定することであり、日本国にとって由々しき事態である。であるに、安倍総理はまるで他人事のように「書き換えは許されざる大事」と言ってのけ、財務大臣に至っては「理財局の一部の職員が勝手に書き換えた」とうそぶく始末。

安倍総理、麻生大臣、あなた方を民主国家の一員として認めたくはありません。

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 今年は寒い冬でした。それでも那須高原にも春は確実にやってきます。

 

女性専用車の情けない男たち 

数日前のニュースショウで、女性専用車に乗り込む男性の話を取り上げていた。彼らは間違えて乗り込んだのではなく,意図をもって乗り込んだのだそうだ。その意図とは「女性専用車は、男女平等に悖るので廃止させたい」のだそうだ。その車内での女性の抗議や、駅員の降車の促しを無視し、「乗っていても、法に触れない」とうそぶいていた。番組によると、「女性専用車反対」の団体があり、その代表であるという男は、取材に対して匿名で顔を隠し「我々は,千回以上、意図して乗車している」「だいたい女性専用車は、憲法十四条違反だ」などと述べている姿を放送した。

確かに十四条では男女平等を謳って居るが、それは、男と女では肉体的にも精神的にも「差」があり、そのうえで「社会的に平等を期する必要がある」と謳っているのであるり、どちらかと言えばその「差」を埋め、平等にするために便宜を図ったのが「女性専用車であると解釈される。さらに言えば、法律はいかに解釈し運用するかにより、良い法律にも悪い法律にもなるという基本的なことも、彼らは知らないのであろう。

そもそも、それ以前に、彼らの度量の狭さにはあきれてしまう。肉体的に男より弱い女性の便宜を図るのが我慢できないとは、どんな男なのか顔を見たいと思う。さすがに彼らも恥ずかしく?顔を隠して取材に応じていたが、平昌オリンピックだ活躍した若者の爪の垢でも煎じて飲ましてやりたい。

その代表とやらに申し上げる。「女性専用車を廃止したとて、社会に何が貢献できるのだ。まるで無駄な、建設的のかけらもない活動などしている暇があったら「自身、いかに生きるか」と問い直してみては?

アルマーニの制服は、憲法違反! 平和憲法の話3+1

泰明小学校が、アルマーニの制服を採用することで、話題になっている。

採用の理由として、泰明の校長は「服育のためにもなる」と苦しい釈明。

それって、校長にとって教育理念の礎中の礎、である憲法26条に抵触していると、自ら宣言しているのだけれど?

すなわち、憲法26条の2項には「義務教育は、これを無償とする」とある。ところが、泰明小学校の生徒は、「服育」を受けるために8万円もの出費をしなければならない。校長は、制服を着る着ないは自由であるとしているが,着ない生徒は「服育」の機会を失うことになり、しかも、生徒間で差別されることも否定できない。

義務教育の公立小学校の校長としては、「義務教育は無償であり、教育の機会均等でなければならない」ことから、泰明小学校の現校長の教育者としての資質に疑問符が付く。

更に校長の指導機関である、千代田区の教育委員の資質も問われて、しかるべきである。

憲法は崇高なものである。しかし、それは飾りではなく、我々国民生活を直接守ってくれているはずである。しかるに、わが国では、その機能が十分発揮されていない。

第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」とある。

然り。

自衛隊は軍隊である。「平和憲法」の話3の3

 自衛隊が軍隊であることは、政府も最高裁も認めていない。しかしその軍事力は、米国の戦力分析サイト「omgtens」2016年度版によると、米国、ロシア、中国に次いで日本が第4位である。

 このことは、日本国憲法第9条第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」に明確に違反している。一歩譲って、政府の主張する「自衛隊は軍隊ではない」としても、「その他の戦力」を有しているからに、「軍隊であるかないか」の結論を待つまでもなく、自衛隊の存続は憲法違反である。

 しかるに、安倍内閣は、最高裁の砂川判決から自衛隊存続合憲を導き出している。しかし砂川判決は、約40年前、立川米軍基地で周辺住民が起こした訴訟であり、米軍の日本国内における基地が、日本国憲法に抵触するか否かの判断を求めたものであり、「自衛隊云々…」には何も触れていない。しかしその中で「自衛権」を認めていることから、歴代政府は「よって自衛隊は合憲」との飛躍し持論としている。

 そのことに関して、最高裁はどのような見解を持っているのであろうか。憲法81条によると「最高裁判所は一切の法律、命令、規則また処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終裁判所である。」すなわち、最高裁は、合憲か否かを判断する唯一の機関であるからに当然、何らかの判断が示されたはずである。しかるに砂川判決以来40年間、最高裁は常に「自衛隊が合憲か否か」の判断を避けてきた。

 世界4位の戦力を保持する自衛隊は、我が国最高の法律頭脳集団「最高裁」の判断を待たなくとも「自衛隊は軍隊であり存続は憲法違反である。

自衛隊の実力

 兵員は約25万人,戦車678台、航空機1,613機、イージス艦8艇、潜水艦16艇、(2021年には22艇)で同じ敗戦国であるドイツの軍隊と比較すると、ドイツは、兵員16万人戦車408台航空機663機、潜水艦0と、日本が圧倒的である。

 また、米国誌ナショナルインタレストによると、海軍力でキーとなる潜水艦は中国が70艘に対して日本は18艘であるが、日本の潜水艦に対抗できる中国の潜水艦は1艘もないとしている。その具体例として、日本の魚雷は水深600メートルの水圧に耐え得るが、中国の魚雷は400メートルの水深が標準仕様水深であり、両者が対峙した時、日本艦が水深500メートルに潜水すると、中國艦からの魚雷は500メートルの水圧に耐えられず全て、途中で自爆してしまい、一方日本艦からの魚雷は敵艦に水深500メートルから襲い掛かる。

 中国には空母が2艘就航しているが、1艘はウクライナから中古を譲り受けたものであり、他の1艘は自国の建造によるものだが、その実力は疑問視されている。他方日本は、空母を保有していないとしているが、「隠れ空母」が4艘もあり更に増強しようとしている。すなわち「隠れ空母」とは、海上自衛隊保有するヘリコプター搭載艦「いずも」である。「いずも」は現在9機の哨戒ヘリコプターが搭載できる、全艦フラットな広い甲板を備え、簡単な改装により、垂直離着陸機F35B、を導入すれば、強力な空母と変身するのである。余談になるが、そのF35Bについては、先日トランプ大統領が来日した際、日本が米国から購入すると安倍首相が大統領に約束したようで、大統領はご機嫌で帰国した。

 以上、海上自衛隊の実力について述べたが、陸海についても、量でなく、世界最新鋭の性能を誇る軍事力は、兵員の能力とともに、中国の脅威となっていることは、中国メディア=国が認めているところである。

「平和憲法とトランプ大統領」  日本国憲法の話3の2

 ダボス会議に突然出席した大統領は、相変わらず言いたい放題言うと、6時間ほどの滞在でさっと帰国してしまった。そこでの注目された演説もいつもの「アメリカンファースト」が基調だった。その「アメリカンファースト」、実は日本国憲法とは真っ向から対立する。

 日本国憲法の前文には「われわれは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはいけない。政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則にしたがうことは他の国々と対等の立場であり、それを維持することは、世界の国々の責任である」と明記されている。トランプ大統領は、「自国のことのみ専念する」とか、「対等の立場には立たない」とか、平和で公正な恒久平和を念願する国連憲章にも抵触している。

 その大統領の言動にはっきりと「受け入れられない」と表明しているのがドイツのメルケル首相だ。彼女は、ダボス会議でも、大統領の演説に懸念を表明した。

 一方、日本の安倍首相はどうであろうか。彼のアメリカに対する外交の基本方針は、トランプにすり寄り、彼といかに親密かをアピールする一点である。いうまでもなく日本国の総理大臣は、日本国憲法を順守する大切な役割がある。その憲法は、アメリカンファーストを受け入れないと明記されているだけではなく、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とある。

 日本国民の代表である安倍首相、一言でもいい「日本国憲法、ひいては、国民はあなたの基本的政治思想を受け入れません」と言ってくれませんか。全力をあげて!

「平和憲法悲し」 日本国憲法の話3の1

 日本憲法は、前文で、再び戦争の惨禍のないようににすると決意し、さらに九条に、武力を放棄することを明記した、世界に類を見ない「平和憲法」である。

 その恒久平和を達成するための方策も実に博愛に満ちている。すなわち、前文にて、「恒久の平和を念願している日本国民は、本来人間同士がお互いを尊んでいるという崇高な関係を自覚していてる。それゆえ、全世界の人々が公正であることと、約束を守ると信頼しすることにより、他国からも信頼されることにより、平和を維持しようと決心した。」と述べている。

 端的に言うと、「お互い信頼し合っていれば,争いなど起こらないので、武力など持たなくとも平和は維持できる」と決意表明している。

 本当だろうか?中国、や韓国、ロシアなどの国々を信頼し、もし、自衛隊が存在しなかったとして、日本と中国、韓国、ロシアの関係は、現状と変わりないだろうか。又、日本と米国との関係を考えた時、100%米国の武力に頼った時、全土が沖縄化の憂き目にあっていないだろうか。

 竹島は、韓国に実効支配されている。中国は東シナ海に着々と、武力を背景に支配力を強めている。ロシアはクリミヤ半島を武力で自国領とし、北方領土も返還する気は毛頭ない。それでも、日本近海で彼らの進出を抑止しているのは、米国の軍事力を背景にしているとしても、自衛隊の抑止力によるものであろう。

 悲しいかな、九条が形骸化し、理想を求めた「平和憲法」が意味を失った今、我々は新しい「日本国平和憲法」についた考えなけれなならない時が来たのではないだろうか。

西野亮廣に啓発された。

 小生の息子が尊敬する、西野亮廣の著書「革命のファンファァーレ」を息子から貰って読んだ。「現代の若者」の、あの「芸人」が何を言うのだろうかとの興味からだ。読み始めて5~30ページで、「こいつ、俺と同じように本音で生きていやがる」と思うと同時に「いけね!俺、デス、マスでブログを書いている、と気が付いた。そこで、直近の小生のブログ「隣国の睦、と怨」ではデス、マスを止めた。何しろブログのタイトルが「本音で語る」なのだから、デス、マスは似合わない。約半世紀も後から生まれた若い奴に啓発されるとは思ってもいなかったが、早速文章の書き方を変えたのは、その本の「はじめに」の初めに、「だから僕は、【最近の若い者はという言葉】に反発し、年下を肯定することから始める」に賛同したからだ。

 お金とはの項の、お金の定義「お金とは、信用を数値化したものだ」の考えやその理由付けも説得力があり、息子が心酔しているのも納得がいった。その「信用」についても、「嘘をつかないことだ」と、テレビバラエティ番組の食レポで、旨くなくと「美味い」と言わなければならない芸人たちは「信用がな得られなく」「俺は、そんな番組には出ない」「だから、俺には信用があり、クラウドファンデイングで1億円も集めたんだ」と胸を張っている。???。「嘘をつかなければ」信用が得られるのではなく、「嘘をつかないのは」信用の大前提であり、「芸人」の信用は芸そのものの質によると思う。

 言わせてもらえば、「お前さんが、芥川賞作家でなければ、1億円は集まらなかったよ!それは、芥川賞の信用のたまものだよ!」と。

 さらに読み進んで、「芸人を再定義する」で、おっとっと、と躓いた。

 まず、西野君に、芸人を再定義などしてほしくない。「芸人」は、日本特有の文化だ。1500年以前の白拍子の活躍から続くき、特に江戸時代での庶民の育てた「芸人」文化は、世界を見回しても類が少ない。(エンターテナーと芸人は違う)西野君の嫌いな言い方、「今どきの若い者」の君には、再評価は難しいのでは?だから君の定義、「人とは肩書ではなく生き方の名称だ」と訳の分からないことを文章にし、本に記述までしている。そんなに片意地張らなくとも、「芸人」とは芸のすばらしい人間だ!芸人定義のこの項で「ある番組の流れで、肩書での芸人を止めることになり」と述べているが、「芸人」は、自分からなったり,辞めたりするものではなく、世間が付けてくれる肩書だ。もともと、君は芸人じゃないので、辞める必要もなかったのだ。さらに君は、「肩書での「芸人」はやめたが、生き方が「芸人」だから、俺は芸人だと、さらに訳が分からない。

 梅沢富雄という芸人が居る。ご存知彼は大衆演劇のスターで、彼を「芸人」と推す庶民は数百万人いるだろう。その梅沢富雄、いろいろなバラエティー番組に出演し、時には「食レポ」を行い、たぶん、君の言う、「旨くなくとも、旨い」と嘘をついているだろう。しかし彼の「芸」には数百万もの信頼が集まっている。

 ひな壇に並んで、テレビデレクターに媚び、視聴者に媚びを売る「芸人」たちを、西野君は「肩書だけの芸人」一束一絡げだ。その代表格の松本人志には「芸」がある。小生の好きなテレビタレントにして、エッセイスト、時に女優の壇蜜は、自身を「サンシタ芸NO人」と称しているが、どうしてどうして芸達者である。2013年度の日本アカデミー賞では、新人俳優賞を受賞している。彼女は、小生や西野君のように「本音で生きるなどと大声を出さないが、今どきの若い者には珍しく本音で生きていることは、彼女の言動や著書からも知れる。その彼女、芸能界を「正論などほとんど意味を待たない世界で飯を食う」とさらりと言ってのけている。西野亮廣とは大違い。本音で生きると大声をあげ、「芸」を抜きにして「芸人」を語っている君の記述は、「俺は漫才出身だが、芥川賞作家でもあり、【煙突町のブベル】企画者で他のテレビタレントとは一線を画してくれ」と言っているに過ぎない。

 このブログで、西野君の著書「革命のフンファーレ」を取り上げたのは、若者の旗手であり、大きな影響力を持っている彼の記述が、実は玉石混合であるということを、読者に知ってもらいたかったからである。当然「玉」もちりばめられているが、「俺が!俺が!」の石ころが随所にみられる。

 特に、「僕は番組収録中に帰った」と得々と述べているのは、最悪のごろた石だ。彼のやったことは理由は何にしろ社会でのルール違反だ。ルール違反が寛容されれば、彼の言う「お金とは信頼の数値化」も成り立たないしクラウドファンディングも成立しない。「若者の旗手たる君が、ルール違反を煽る立場でいいのかな?」と西野君に言いたい。

 若者よ、世の中にある玉石混合の中から、本当の玉を見分ける力をつけよう。

 

 

 

隣国の「睦」と「怨」

 日本の隣国と言えば、韓国、中国、台湾。

 その内、台湾では28年前赴任し3年間暮らした。赴任先は、日本企業と台湾企業との合弁による広告代理店で、社員数百名程度の創業間もない会社であった。日本人はわずか5名。ほとんどの台湾の社員は20代から30代前半の若い人たちであり、熱気に溢れていた。彼らは、日本人への偏見もなく、ただ、中国語のしゃべれない同僚として、また時には、広告先進の国から来た先輩として、接してくれた。同僚だけでなく、クライアントも、協力会社のスタッフや、マスメディアのスタッフなども日本人としての分け隔てなく接してくれ、非常に心地よく仕事のできた3年間であった。

 仕事での人間関係だけでなく、生活の場においても、日本人と知りながら、ほとんどの台湾の人々は、親しみを込めて接してくれていた。当時の60代以上の台湾の人々の多くは、日本語を話し、日本人と知ると親しげに話しかけてくることが常であった。彼らの世代は、日本の統治下にあり、日本語を学ばせられた世代であったが、その日本の統治行政が良かったのであろうと想像できるし、若い世代は、その親の感情を受け継いでいるものと思っていた。

 ある時、10人ほどのクルーで台南へ撮影に出かけ、10日ほど行動を共にした。そうなれば酒を飲む機会も増え、若い彼らの日本人観を聞くこともできる。そんな会話の中で、「バーディンヨーイーの銅像、この近くですよ!」!と誘っている口調。「なにそれ?」と私。「日本人ですよ!」とそこにいた若者全員。「知らない。どのような字を書くの」と私。台湾では今でも中国本土のような略字を使っていないので、時には意思疎通に筆談が始まる。「八田與一ですよ」。確かに日本人の名前であるが、私の知らない人である。「台湾の中学生の教科書、(認識台湾)に載っているので、台湾人はほとんど知っていますよ」とのこと。 彼らの説明によると、大規模な灌漑設備を完成させ、台湾農業の父と謳われている人物だそうだ。「私たちが、日本人に親しみを覚えるのは、直接接しているあなたのような日本人の影響もありますが、この教科書の記述の影響は大きいと思いますよ」との、そこにいた若者の総意で会った。

 知らなかった不名誉挽回と、後日家族と台南観光を兼ね、「烏山頭ダム」まで足を延ばした。そのダム湖の公園には、八田与一の銅像も据えられ、業績をたたえる大きな碑が建てられていた。その碑文によると、漢字から読み取れりのは、ダム建設や灌漑事業の功績とともに、その人柄が称えられていた。そしてその銅像は「威厳」とは程遠いい姿で座り込み、なにか思索しているように指先で、額をポンポンと叩いていた。人柄なのであろう。台湾の人々が感謝の気持ちをもって設立したそうで、設置から90年近くたつのに、今でもきれいに保存され、時には花が飾られるそうだ。

 もう一つの隣国、国同士の約束を、平気で反故にする韓国に思いを馳せよう。これは日本でも有名な、かの少女像。韓国国内には数多くあり、米国にまで設置されているというが、韓国の人々は、その像を前に、子供たちに何を語るのだろう。それは「怨」の象徴なのであろうか。

 日本と韓国との深い溝はいつ埋まるのだろうかと思うと、暗澹たる気持ちになる。

 

  余談だが、遠いい国「トルコ」の国民は親日家が多い。

 私がオランダで暮らした6年間、毎週のようにトルコ市場に通った。何しろオランダのパンはまずい。(お世話になったオランダの皆さまごめんなさい。でもこれ本当だよね?)そこで、オランダ人の隣人の勧めで、トルコ市場で、トルコのパンを買うことにしたのだ。毎週出かけては、そこでケバブのサンドイッチを朝食として食べていると、店員とも親しくなる。特に日本人と知ってからは、何かと話しかけてくれ、ケバブサンドの横にはピクルスがついてくるようになった。

 そんな彼らから、日本人の誠意は、彼らの「公民」の教科書から学んだ、との話を聞いた。彼らとは、お互いの英語力の限界で深くは話せないが、後日調べてみると1890年の起きた、エルトール号遭難事件のようだ。事件は、和歌山県串本町、樫野埼岩礁に、トルコの軍艦「エルトール号」が座礁し、その生き残りの船員69名を村人たちが手厚く看護し、本土まで無事送り返したエピソードであった。子供の時心を打ったその物語は、トルコの、親日国の礎となっている。

 さて隣国中国の教科書には、今でも、子供たちが反日感情を植え付ける記述が載っているのだろうか?