頑張って提言

那須に住む元広告クリエイターが世の中に対してホンネを語る

隣国の「睦」と「怨」

 日本の隣国と言えば、韓国、中国、台湾。

 その内、台湾では28年前赴任し3年間暮らした。赴任先は、日本企業と台湾企業との合弁による広告代理店で、社員数百名程度の創業間もない会社であった。日本人はわずか5名。ほとんどの台湾の社員は20代から30代前半の若い人たちであり、熱気に溢れていた。彼らは、日本人への偏見もなく、ただ、中国語のしゃべれない同僚として、また時には、広告先進の国から来た先輩として、接してくれた。同僚だけでなく、クライアントも、協力会社のスタッフや、マスメディアのスタッフなども日本人としての分け隔てなく接してくれ、非常に心地よく仕事のできた3年間であった。

 仕事での人間関係だけでなく、生活の場においても、日本人と知りながら、ほとんどの台湾の人々は、親しみを込めて接してくれていた。当時の60代以上の台湾の人々の多くは、日本語を話し、日本人と知ると親しげに話しかけてくることが常であった。彼らの世代は、日本の統治下にあり、日本語を学ばせられた世代であったが、その日本の統治行政が良かったのであろうと想像できるし、若い世代は、その親の感情を受け継いでいるものと思っていた。

 ある時、10人ほどのクルーで台南へ撮影に出かけ、10日ほど行動を共にした。そうなれば酒を飲む機会も増え、若い彼らの日本人観を聞くこともできる。そんな会話の中で、「バーディンヨーイーの銅像、この近くですよ!」!と誘っている口調。「なにそれ?」と私。「日本人ですよ!」とそこにいた若者全員。「知らない。どのような字を書くの」と私。台湾では今でも中国本土のような略字を使っていないので、時には意思疎通に筆談が始まる。「八田與一ですよ」。確かに日本人の名前であるが、私の知らない人である。「台湾の中学生の教科書、(認識台湾)に載っているので、台湾人はほとんど知っていますよ」とのこと。 彼らの説明によると、大規模な灌漑設備を完成させ、台湾農業の父と謳われている人物だそうだ。「私たちが、日本人に親しみを覚えるのは、直接接しているあなたのような日本人の影響もありますが、この教科書の記述の影響は大きいと思いますよ」との、そこにいた若者の総意で会った。

 知らなかった不名誉挽回と、後日家族と台南観光を兼ね、「烏山頭ダム」まで足を延ばした。そのダム湖の公園には、八田与一の銅像も据えられ、業績をたたえる大きな碑が建てられていた。その碑文によると、漢字から読み取れりのは、ダム建設や灌漑事業の功績とともに、その人柄が称えられていた。そしてその銅像は「威厳」とは程遠いい姿で座り込み、なにか思索しているように指先で、額をポンポンと叩いていた。人柄なのであろう。台湾の人々が感謝の気持ちをもって設立したそうで、設置から90年近くたつのに、今でもきれいに保存され、時には花が飾られるそうだ。

 もう一つの隣国、国同士の約束を、平気で反故にする韓国に思いを馳せよう。これは日本でも有名な、かの少女像。韓国国内には数多くあり、米国にまで設置されているというが、韓国の人々は、その像を前に、子供たちに何を語るのだろう。それは「怨」の象徴なのであろうか。

 日本と韓国との深い溝はいつ埋まるのだろうかと思うと、暗澹たる気持ちになる。

 

  余談だが、遠いい国「トルコ」の国民は親日家が多い。

 私がオランダで暮らした6年間、毎週のようにトルコ市場に通った。何しろオランダのパンはまずい。(お世話になったオランダの皆さまごめんなさい。でもこれ本当だよね?)そこで、オランダ人の隣人の勧めで、トルコ市場で、トルコのパンを買うことにしたのだ。毎週出かけては、そこでケバブのサンドイッチを朝食として食べていると、店員とも親しくなる。特に日本人と知ってからは、何かと話しかけてくれ、ケバブサンドの横にはピクルスがついてくるようになった。

 そんな彼らから、日本人の誠意は、彼らの「公民」の教科書から学んだ、との話を聞いた。彼らとは、お互いの英語力の限界で深くは話せないが、後日調べてみると1890年の起きた、エルトール号遭難事件のようだ。事件は、和歌山県串本町、樫野埼岩礁に、トルコの軍艦「エルトール号」が座礁し、その生き残りの船員69名を村人たちが手厚く看護し、本土まで無事送り返したエピソードであった。子供の時心を打ったその物語は、トルコの、親日国の礎となっている。

 さて隣国中国の教科書には、今でも、子供たちが反日感情を植え付ける記述が載っているのだろうか?